Something Blue (A Wedding Portrait)

Something Blue (A Wedding Portrait)

2012-03-28

Talking about My View of Health 尿療法の効果やその他の健康法について




Since I was a kid, I have suffered from complex health problems, like many other people have.
Only a few people manage to live normally through their whole life without the help of the medical treatments we have available to us today.
Some people (including me) might have already died at an early stage of their lives... this could have happened.
So I guess we must say that we already depend a lot on western medication for our health.

My point of view about health is that we have to realise what we see would be better choice for our future medication.
Because, current western type medical system is gradually breaking down.
I think we can start to keep seeing deeply, thinking wisely and actually doing it each one of us with our body and soul.
This is mainly for our descendants.
We can start think about good quality of life and wellbeing.


今日は、絵に関する事柄とは少し離れたことについて話をしようと思います。

ぼくは、子供の頃から最近までいくつかの病気(=正常な生活を妨害する健康に関する事柄)に悩まされて来ました。
具体的に言うと、目(強度近視)、鼻(アレルギー性鼻炎)、歯(虫歯)の問題です。
『何だそんな事か』と言われそうですが、ぼくを含め、今日の我々の健康に対する見方がいかに医療機関任せなのかということが分かります。
世の中にはこれ以外にも肥満、体の凝り、アトピー性皮膚炎、アルコール依存症、うつ病、摂取障害、排泄障害、不眠症... などの健康に関する社会問題があり、数えればきりがないどころか、これからも新たな問題が増えつづけるでしょう。
これからの我々は、自身に責任をもってこの生活習慣病などから始まる様々な疾病やその他の心身の健康問題に真正面から目を向けていかなければなりません。

我が日本国は、国民が生きてゆく上で最低限必要な健康保険制度を1927年に発足させ、1961年には完全普及されて国民皆保険が達成されました。
もちろん、ぼくも例にもれずその恩恵に浴して来ました。
間違いなく、誕生してからオーストラリアへ渡るまで、確実に日本社会にある意味守られて生きてきたと言えるでしょう。

オーストラリアでも最低限の健康保険は存在します。
ただ、それだけでは全く十分ではないため、この国では任意の健康保険にも加入するのが一般的です。
どんな社会に生まれていようとも、人間として健康に生きていくことは 我々の基本中の基本です。
もし、ぼくが違う環境で生まれていたならば、近視も虫歯も花粉症とも縁がなかったかもしれないし、またあるいは別の病気でとっくに死んでいた可能性もあります。

世界において医療に関する格差はもの凄くあるでしょう。
ただ、実際にこれは一長一短の側面もあり、一概に発展途上国だからいい人生が健康的に送れないということでは全くありません。
先進国だからこそ、環境の悪影響を受けたり、現代医療の犠牲になり、健康的な人生を送れないことが思いのほかあるとぼくは考えます。

それから、もう歯止めが効かなくなっている格差社会です。
持てる者が医療の優遇を受け、持たざる者が十分な治療を受けられなくなって来ています。世界的に見ると日本はまだいい方かもしれません。
主にその中で生きる我々は、将来の医療及び医学を再認識しなければならない過渡期に生きていると言えるでしょう。
ただ間違いなく言えることは、現在そして近い将来の世界の先進国と言われる国々、あるいは日本の中でも主に行われている西洋型の医療システムが、破綻してきているという事実です。
もう少し敷衍すると、ヨーロッパに発祥する資本主義や民主主義が行き詰まっているからだとも言えます。

前回、ぼくは海外に出て日本の素晴らしさを確信したと言いましたが、 まさに我々日本国民は東洋のリーダーとして、厳しい状況を太古から生き抜いてきているその智慧をもって、この世界の危機を救う役割を担える存在であると思います。
だからこそ、もう一度我が国の成り立ちを見直し、その素晴らしい価値観に自信を持って世界に役立てていかなければなりません。
一度何かで読んだ話ですが、歴史を見ると東洋と西洋の文明の力関係が、約800年周期で交代しているそうです。
もしそうなら、これからは東洋が文明をリードする時代になりますね。
西洋が論理性なら東洋は感性です。
人間の脳が右と左に分かれているように、次は本当に右脳が優位脳になる時代かもしれません。
そうやって交互に働き合いながら、我々は進化してゆくのでしょう。

なぜ絵描きのぼくがこんなことを話すのかというと、 ここオーストラリアに海外移住した2004年当時、医療システムが日本と比べ多少違って一般的に高額ということもあり、金に恵まれない絵描きとしては、いかにお金をかけずに健康を維持するかについて真剣に考えたことがあったからというのと、1年後妻が妊娠して、40代での第一子を授かることとなり、子育てのための体力や健康維持がぼくの切実な問題になっていたからです。
娘が成人するとき、ぼくは60歳を越えることになりますが、年相応に老いてゆくとしても、それなりに気力と体力は充実させたいものです。
ただ、日本に住んでいたならば、これから書く健康法のことはあまり考えなかったでしょうし、実行もしていなかったかもしれません。
試行錯誤はありましたが、実際に試したことで目覚ましい生活上の好転がありました。

まずその前に、健康を考える上で重要なことは何でしょうか。
『食事』と思い浮かぶ人がやはり一番多いと思います。
『環境』というのも大切です。
『運動』、これはよく言われますね。
『呼吸』、我々が生存するための根源的なものです。
『気持ちの持ち方』、 これがもしかしたら一番大事かもしれません。
人それぞれにアプローチの仕方も様々あるでしょう。

ぼくが最初に思ったのは、「何のために病気を治し健康でありたいのかを、具体的な理由と共に意識しなければ、意味がないだろう」ということでした。
因みにぼくの場合は、絵を描くため、それから子供を育てるためです。
絵描きを職業に選んだ以上、ある程度は不安定な収入を覚悟しなければなりません。
健康ならば病気の治療のためにお金を使わなくて済む。
それで可能な限り、お金を節約することにしました。
実は、オーストラリアに住み始める数年程前から酒とたばこはお金がかかるという理由で、もうすでに止めていました。

実際に健康を強く意識し始めたのは、2005年に子づくりを夫婦で真剣に考えた時でした。
一時期(その当時からさらに10年くらい前)日本でも少し話題になっていた『尿療法』をたまたま思いだし、ネットを使って調べて見たところ、お金を使わずに健康を維持できる昔から世界各地で行われていた方法であることがわかり、自分でも試してみることにしました。
ぼくは昔からある一定の事柄についてだけ異様に意志が強いというか、頑固というか、そんな性格があり、決めたことは何が何でもやり通すという妙な気質にも恵まれているため(そのせいで別の失敗も数多くありますが)、今回のお金を掛けずに健康であり続けるという目標は順調(?)に達成され、今年で早くも8年目を迎えます。

現在ぼくが毎朝実行していることは、以下の通りです。
自分の尿を口に含んだ状態で、1分程喉に留めた後、溜飲する飲尿療法。
片方づつの鼻の穴から尿を吸い上げ、口から出す鼻腔洗浄。
尿を使用した両眼球の洗浄。
尿を使用した洗顔。

もう今は習慣なので、あたりまえに行っています。全く苦にならないので、おそらく命のある限り続けるでしょう。
もちろん『尿療法』は現時点での科学的な根拠がまだ証明されていない代替療法ですから、効果があると少しは信じて行うことが前提です。
気になる方は書籍やネットで簡単に調べられますので、ご自由に。http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%BF%E7%99%82%E6%B3%95-%E9%A9%9A%E3%81%8F%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%93%E3%81%AE%E5%8A%B9%E6%9E%9C-%E4%B8%AD%E5%B0%BE-%E8%89%AF%E4%B8%80/dp/4845411733/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1332770685&sr=1-1

実際に自分で感じている効果は、風邪を引いても症状があまり表に出ないことと、疲れ目でも充血が取れてすっきりすること、そしてこのオーストラリアの強力な紫外線の中でも肌がツルツルでみずみずしいと、特に女性から褒められることです(ぼくは男なのであまり重要ではありませんが)。
間もなく47歳を迎える現在、もちろん大きな病気をすることは、今のところ全くありません。
ぼくは人に勧めたりしないので、こういう人間もいるのだなと思っていただければいいのですが、もし本気でやりたい人がいるのなら、喜んでやり方は教えます。

近年はこの傾向が昂じて、一日二食療法も実行しています。おかげで内臓の調子が安定し、花粉症(ぼくの場合は主にハウスダスト)からも完全に解放されました。

さらに、一切の砂糖(加工飲料水、ハチミツ、ジャム、ドライフルーツも含む)を摂取しないことを決意して、新たに虫歯になることもなくなりました。
付け加えると、ぼくは睡眠時に口で呼吸する癖があります。
口の中が乾くと虫歯になりやすいので、駄目押しに口にテープを貼って寝ています。
その他、コーヒー、紅茶、緑茶も飲みません。
最近は乳製品(主に牛乳とヨーグルトが中心、バターとチーズは今でも時々料理に使用)をほとんど口にしないように生活していますが、おかげで胃腸の調子もさらに改善しています。
普段の食生活では、無農薬の玄米と野菜をとてもおいしくいただいています。
http://www.foodconnect.com.au/
玄米だけは高価なので、毎日食べられないのが残念です。
それから、野菜/穀物類と肉/魚の割合を7.5 : 2.5にしています。
どうしてかというと、人間の歯は75%が植物性食物の咀嚼、25%が動物性食物の咀嚼のために構成されているという、ある本の考えに共感したからです。http://www.amazon.co.jp/%E7%97%85%E6%B0%97%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9-%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%81%8C%E5%AF%BF%E5%91%BD%E3%82%92%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%82%8B-%E6%96%B0%E8%B0%B7-%E5%BC%98%E5%AE%9F/dp/4763196197
さらに、血液型ダイエットも取り入れています。http://www.amazon.co.jp/Complete-Blood-Type-Encyclopedia-Right/dp/1573229202/ref=sr_1_cc_3?s=aps&ie=UTF8&qid=1332770510&sr=1-3-catcorr

運動に関して言えば、この坂の多いブリスベンでよく自転車に乗りますし、週2回のジム通いでウエイトトレーニングもしています(現在は怪我で静養中)。
ぼくの運動に対する考えは、主に精神の安定を有酸素/無酸素運動によって得ることです。
ぼくは非常に短気な性格で、時々激情に駆られ怒りにストップがかからなくなることがあることを自覚しています。そういう余分なエネルギーを運動で散らさなければなりません。

最後に目の問題ですが、ぼくは小学校3年生から仮性近視で眼鏡をかけさせられ、その後強度近視(両眼共に0.02)に進行し、ずっと不自由な生活を送って来ました。
もし災害があって眼鏡が紛失してしまったら大変です。
意を決して、昨年の6月に東京でレーザー近視治療の手術(ラゼック)を受けました。
あいにく手術がうまくいかず、乱視が強く残ってしまったため、今年再手術をすることになっています。
再手術者の割合は全体の約1%で、運が悪く稀なケースに入ってしまいました。
でもリスクを承知で手術を受けましたから、トータルで考えれば、現時点でもプラスになったと思っています。
ぼくが子どもの頃からずっと患ってきた、目と鼻と歯の問題がやっと(ほぼ)解消されました。

これは不思議に思うのですが、オーストラリアでは特に子供の近視と花粉症と虫歯の割合が日本に比べて非常に少ないのです。
さまざまな理由があると思いますが、ぼく個人も実際に日本で育ってこれらに苦しんできましたから、とても興味深く感じます。
その代わりオーストラリアでは、『肥満』は全ての年代における社会問題です。
ぼくはこの『肥満』に関して言えば、ただ人種の違いによる外見に表れるだけの差だと思っています。潜在的な体へのダメージは、日本人もそう変わらないでしょう。
しかし間違いなく言えることは、砂糖の取りすぎです。
砂糖を使った食品は世の中に溢れています。
最近、砂糖は虫歯の原因ばかりではなく、近視の原因にもなるといわれています。
特に歯は、健康を大きく左右するもっとも大切なものの一つです。
咀嚼が十分に行われなければ、直接内臓に負担をかけます。
花粉症も内臓の働きが悪くなるために起こるといわれていますから、全ては繋がっているのです。

わかりやすく言えば、私たちの子孫の健康を守るためには、人工で精製した砂糖を極力取らないようにするのが一番の近道だとぼくは考えています。
この世にはありがたいことに果物というものがありますから、それを中心に食べていれば全く問題ありません。
しかし、現実的には子供に砂糖や人工甘味料を使用した食品を全く与えない事は、かなり難しいとぼくでも感じます。
もちろん、社会生活を送る上で多少の『毒』は必要だとも思っています。
それにしても、今の世の中にはそれが異様に溢れ過ぎています。
子供の健康は親の責任です。
ぼくには、自分が経験した病気や疾患を子供には経験させないという決意がありますから、安易に対症療法に走るのではなく、知恵を使って予防をすることに力を入れます。

日本においてはメガネやコンタクトレンズ、花粉症の対策商品、歯科・デンタルケア等の商業/産業ビジネスがもの凄い市場となっています。
新たに病気に対する解決策が発見されたとしても、既得権益側の力があまりにも大きすぎて、正しい情報がきちんと一般の国民に伝わらないという弊害が出てきます。
日本はこういった姿勢を早く正していかなければなりません。
全ては、昨年の東日本大震災に端を発した、人災とも言える様々な状況で明らかになっています。
この教訓からも我々は学ばなければなりません。

人生における食の楽しみを放棄してまで、健康になりたくないという意見がありますが、その考えはごもっともです。
当然、ぼく自身の健康法については、これからまだ改善の余地があると思っています。
ただ、一般的に言われる人生の半分以上をこうしてすでに生きてきて、口においしい人工的なものは、もう十分に楽しんだと思っているので、基本的に悔いはありません。
さらに、これは自分の絵を通じて、生き様を残すための願掛けのようなものですから、闇雲にしている訳ではありません。
ぼくの友人に完全な菜食主義の方がいますが、彼女の方が数段厳しさにおいては上です。ぼくは肉や魚は以前より量は減らしましたが、まだまだ食べますからね。
もちろん、家族や身近な人には全く押し付けません。
ありがたいことに、この ちょっとした変わり者を、ただ黙って見守ってくれています。
一応、ぼくは家族のためにもやっていると思っているんですけどね。

医療に関する個人的な意見や情報を長々と書いてきましたが、現在進行中の健康法も試行錯誤の中で自分に合わないものは当然今後淘汰されます。
結果的に全て自分の責任によって、決して後悔しない健康法しか、ぼくはこれからも選ばないでしょう。
ただ、ぼく個人で試していることは、自分なりに考えた結果、実践していることですから、他の人に無理に押し付ける気は毛頭ありません。
誰もが、自らの健康を自分なりにもっと深く考えるきっかけになればと思っています。

はっきり言って現在、一般の人々の健康に関しての意識は高いようでいて、実際にはまだまだ医療機関任せになっていると思います。
医療は社会にはなくてはならないものですが、医療従事者だけではなく、患者の側も今までとは違った意識で病気を見つめることで、 ならなくでもいい病気から自分を守ることができるだろうし、運悪く病気になったとしても、それを素直に受け入れて改善することができるでしょう。
自分自身が 己れの健康の最終責任者でなければ、誰が責任を取ってくれるのでしょうか。
自分の命は自分だけのものではないのですから、もっと健康に関して我々は真に目覚めなければなりません。
東洋医学などを中心にこれから目を向けるべき健康医学の分野は、すでに数多く存在しています。
医療従事者からも、現在の医学や医療の限界を示唆する発言が目立ってきています。
病気を部分的に治療する事よりも、からだ全体を考えた治療がより良い事は、周知の事実です。
具体的には早期発見から一歩進んで、発病しない生き方を提案する智恵が今から特に必要になってきます。
簡単にありふれている、目や鼻や歯の問題も氷山の一角で、医療全体を根本的に見つめ直さなくてはなりません。
対症療法ではない、新たな医学の方向性も同時に探ることが大切です。
それは、きっとぼくたちの子孫にとって大きな財産になるはずです。

今申し上げたことは問題提起ですから、ご質問や持論、異論、新たな情報がある方は遠慮なく是非コメント欄へ内容をお寄せ下さい。

2012年 3月 28日(水)


※ Cape Leveque is the northernmost tip of the Dampier Peninsula in the Kimberley region of Western Australia.
冒頭に載せた絵は、西オーストラリア州の北部に位置するレベキュー岬です。
天国に一番近い場所として多くの人の心を惹きつけています。



2012-03-12

2011 (皇紀2671) 年 3月 11日(金) 午後 2時 46分


今日は、私たち日本人にとって特別な日です。
一年前の2011年3月11日、未曾有の自然災害でしたが、実はそれ以上にこの国を祖国とする私たちにとって、これからの生き方自体を問われる出来事となりました。

自問自答し、ぼく個人も生き方が変わりました。
一番大きかったきっかけは、自分自身が海外で初めて生きてみて「日本人」であることを強く感じさせられたある出来事からでした。
それはあの震災後、娘が通うブリスベンの小学校で、全校を挙げて開いていただいた、日本への義援金チャリティの催しでした。
オーストラリア国民から日本へ向けた、真っすぐな思いやりの心に接し、ぼくは強く胸を打たれました。

全校集会での校長による克明な当時の日本の状況説明から始まり、生徒からは東北の被災者に向けたメッセージの入った大きな折り鶴を、もうお一方の日本人と共に代表でいただきました。
準1年生から7年生までの生徒(現行では8学年)はもちろん、多数の職員や保護者も出席する中で、ぼくはお礼の挨拶をしながら、溢れ出る涙を止められませんでした。

日本を代表して、その思いに答えなければならないと感じました。
そのためにこれまでの自分の生き方を改め、少し大袈裟かもしれませんが、海外で生きる日本人として恥ずかしくない人間になろうと決意しました。
いただいた折り鶴は、福島県いわき市の被災したある小学校へ直接届けることが出来ましたが、その時、小学校の校長先生にいろいろなお話を伺うことで、日本人としての大切な「絆」を自覚しました。現地へ行くことが全てではありませんが、少なくとも直に足を運ぶことがどんなに重要なのかが分かりました。

実は、東日本での震災の2ヶ月ほど前、ブリスベンが40年ぶりの大洪水に見舞われ、地域の人々同士の団結がどんなに大切かを身に染みて感じていました。
それまで人見知りが激しく、人と交わることを極端に避けてきたぼくは、ブリスベンの地域コミュニティに溶け込むことも出来ませんでしたが、洪水後に片付けのボランティアなどをしながら、勇気を出してできる限り社交的になろうと努めていました。
そこに今回の震災が起こり、オーストラリアに住んでからそれまでは、日本人との接触も僅かしかなかったのですが、最近は日本人を見かけることがあれば、こちらから話しかけるようになりました。

海外から日本を眺めれば、現地との比較が容易にできるため、国内からは見えないものも見えてきます。良い事も悪い事も両方です。
ただ、個人的には海外移住後、日本の本当の良さを初めて確信した(それが何かは次回に持ち越します)こともあって、震災後は特に日本の為になる生き方をしたいと思っています。

心がけていることはただ一つ、気持ちを「誰か」(あるいは場合によって「何か」)と共有すること。
それは何のためか... おそらく自分の次の世代の日本人のため。
ぼくにとって日本人であることはとても重要です。そのために新たに勉強もしなければなりません。国際人であるための、必要最小限の資質を持つ日本人ではまだないと自分自身を省みて感じます。
そうあることが、現在お世話になっているオーストラリアという国への真摯な恩返しになると思います。

絵を描くときも、自分が描く絵であることに固執し過ぎずに、自分をしっかり定めて周りと自然に協調できれば、偶然にいいものが出来上がる気がします。自分で描いていながら「個」を越えた大きな流れの中で作品が出来上がる。これだったら、あまり構えずに画面に集中できそうです。

逆に言えば、歴史上あるいは現在のどんなに偉大な芸術家と自分とを比べても、同じ人間なのだから、気持ちの上では対等でいられます。
『芸術の神が降りてくる機会は、常に万人に対し公平である。』
常に芸術を創り出すことを考えながら行動し続ければ、そのチャンスに巡り会うことも多くなるでしょう。
共有する、あるいは自分を開いて他者と共感して初めて、何らかの感動が生まれるのかもしれません。
このブログで、自分の考えを吐き出すことも、誰かとの良き気持ちの共有となっていると信じます。

最後になりましたが、一周忌を迎えるにあたって、先の東日本大震災によりお亡くなりになられた方々に深く哀悼の意を表し、ご遺族の皆様、そしてさまざまなかたちで被災された多くの方々に対して、心よりお見舞いを申し上げます。

2012年 3月 11日(日)

※写真は、昨年の6月に訪れたいわき市の小学校です。
実際にぼくが折り鶴を届けたのは、この学校に当時 間借りをして勉強をしていた、被災した別の小学校の生徒の皆さんでした。今年は本来の校舎に訪れたいと思います。

2012-03-01

Talking about My Style 緒方 慎二 - 絵の描き方について

 
One-take finish style = Acoustic Drawings

I am a so-called 'perfectionist', whether I like it or not.
In the past, every time I started a drawing/painting, it used to take me a long time to finish it. I erased my strokes all the time. My style was mainly a long-take finish style...
One day, I realised: If I don't erase anything then I can finish my art works so quickly!

I gave up using pencil for (rough) sketching for a while and drew with a pen instead.
All of a sudden, I found my concentration had increased and I was having even more fun than before!

Acoustic Drawings means every stroke you take on the blank canvas or paper is like an echo - just as you can't erase a sound in the air, this style means that every stroke I have made is recorded forever.

I still love the trial and error method using pencil on paper. it's really important training to maintain my skill and find the essence of the subjects I am drawing.

I admire Musashi Miyamoto the legendary Samurai who was also a great artist.
His fighting style with Japanese swords is called two-swords fencing.
He expanded his theory from its original use for fighting and self defence to encompass all aspects of our lives.
Offence and defence, input and output, myself and others etc. are united, creating a balance of good and bad, weak and strong. 

I have adopted his style because it allows me to train my ability to focus.
I accept my imperfections so I'm happy to leave a record of all my results (both good and bad) on paper. I will just keep drawing like this.

※ I'd like to share this painting with you.
I'd like to dedicate it to a person who once lived in Brisbane. He passed away recently and he was a captain of the "CityCat" ferries.


「一発描き」 = "アコースティック・ドローイング"

ぼくは、いわゆる「完璧主義」の傾向が強いタイプの人間です。
これまでは気の遠くなる程の時間をかけて作品を仕上げていましたが、それだけではいくら時間があっても、また幾つ命があってもぼくの絵を通じての「志」を達成することは出来ないと悟り、それまで多用してきた鉛筆を暫くの間、封印することにしました。

ペンを持って真っ白い画面に向き合うとき、鉛筆からでは出てこないような緊張感と集中力を自覚し、以前よりも純粋に絵を描く喜びを感じました。

スタイルに"アコースティック・ドローイング"(響く音のような描写)と命名した訳は、空間に音が一旦響けば、消すことが出来ないように、 白い画面に引いたストロークがずっとそのまま残る絵の描き方に挑戦したいという思いを言葉に込めたかったからです。
もちろん、今まで続けてきたじっくりと時間をかけて対象物を観察する目と、表現する技を鉛筆を使って磨くことは、ぼくにとって重要な要素であることに今でも変わりはありません。

剣豪として、また『五輪書』で有名な、ぼくが敬愛する宮本二天(宮本武蔵・1584?~1645)は、二刀流改め『二天一流』を兵法だけに止まらず、生き方の心構えを共に説きました。ご存知の通り、彼は芸術家としても数多くの優れた作品を残しています。
この流派のぼくの勝手な解釈を申し上げると、我々が様々な問題に対峙する場面で、解決策や打開策を望むとき考えなければならないのは、ものごとには必ず両面があり、それをあらゆる状況下で水のようにかたちに囚われず、その二つの要素が円を循環するように行き来することであり、条件が満たされれば、その効果が自然に発揮されるというものです。ここで忘れてはならないのは、両面は常に一体であるということ。
両面とは、戦いであれば攻撃と防御、実務であれば学習と実践...その他にも自身と他者など例を挙げればきりがありません。
従って『二天一流』は、我々の生きる世界において、おしなべて活用できる考えとも言えると思っています。日本的な「和」の精神、あるいは禅の「空」や「無」の精神にももちろん通じます。

ぼくの絵の描き方に「一発描き」のようなアウトプット的な即興性を加えたことで、今までのじっくりと時間をかけて磨いてきたインプット的な沈思熟考型の絵にも、本当にいい影響が表れて来ています。
でも、即興の絵は素の自分をモロに見られているような気持ちがするもので、なかなか勇気がいることです。自分を画面に晒け出すことに少しは慣れてきたつもりですが、まだまだその途上です。だから自分の作品は、必ずそのまま皆さんに発信し共有したいと思っています。
この『二天一流』の精神を意識しながら、それぞれのストロークに気持ちを込めて、これからもただ描き続けます。

※ 今日掲載したこの絵を、先日お亡くなりになったある日本人男性のために捧げます。
この方は"シティ・キャット"という名称で知られる、ブリスベン川巡航フェリーの操縦士でした。
タイトルは "Story Bridge and CityCats" 。

2012年 3月 1日(木)