Something Blue (A Wedding Portrait)

Something Blue (A Wedding Portrait)

2013-01-29

Visiting Iwaki Again いわき市立豊間小学校へ (福島県 いわき市 平薄磯)




Hi, how are you doing these days?

This is the first update in 2013.
I spent about whole month from mid December to mid January in my home country Japan.
I would like to say thank you to all people whom I saw/met over in Japan.
I had a really really great time.

I also had my eyes operated on again and it went well.
I'm waiting for the recovery at the moment.
I'm looking forward to draw/paint pictures very soon!

This time, I'd like you to know about what's been happening since the Earthquake/Tsunami/Nuclear disaster in 11th of March 2011 especially about an elementary(primary) school in Iwaki-City in Fukushima prefecture.
The name of the school is Toyoma Elementary School.

I went Iwaki about one and half years ago.
It was about 3 months after that disaster.
The school building was damaged by the Earthquake/Tsunami, so the school kids had to move to another place to study.
I went to the place where the kids were studying, the place is Takaku Elementary School.
Location of the school is a bit further in from the coast.
They were studying on the corridors of the class rooms because there was nowhere else to have the classes.

Last year, the original school building was fixed/repaired to use and the people could go back to their place again.
I'm so happy to hear that.

When I visited the school this time, the junior high school students were also studying at the same elementary school building.
Because, their original school building is very close to the coast and it is too much dameged to use.
I talked to Mr Muraoka the deputy/vice‐principal of the school.
I was highly welcomed by him and we talked over an hour.
He explained me the situation about the environment and society of Iwaki area and especially about school kids.
He said "What's the most grateful thing supporting us mentally is to see our kids are living so energetically making it seem like it's exactly the same as was seen before the disaster."
He also said "We have faith in a future here, so we decided to stay on here. This school has come to symbolise our faith and will give us the strength to rebuild and carry on."

Many people is still coming from every places in Japan and whole world to support Tohoku area.
I'd also like to do some constant help somehow.

I'll show you some photos around this area with comments (in Japanese though).



2013年も早いもので 2月も中旬を過ぎました。

おかげさまで1月に目の手術も無事に終わり、現在は順調に視力の回復を待っているところです。
あたたかい声を掛けていただいた方々 お一人お一人に心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございます。

前回 1年半前に受けた レーザー治療の結果が十分でなかったため、 今回 再手術を受けた訳ですが、手術の方法が ラゼックと呼ばれるもので、眼球の表面の膜を除去してレーザー手術を行うため、膜が自然に再生するまで 本来の視力の回復には 大体3ヶ月から6ヶ月程かかってしまいます。

このブログを書いている今現在で、ちょうど1ヶ月が経ちました。
担当をしていただいた執刀医師によると、手元から徐々に遠くまで見えてゆくそうですが、その通り 少しずつ見えてきています。
今の視力はおそらく0.4~0.5位でしょう。

手元は何とか見えますから、静物画などから描き始めています。
またこのブログで お目にかけたいと思っています。


描いた後、とても美味しくいただきました。



さて、もうすぐ 東日本大震災から 2年が経とうとしています。
今回の更新では、再び訪れた福島県いわき市の薄磯地区についてのご報告をいたします。

震災から3ヶ月後の2011年6月に 初めて被災地に訪れたことを、以前 このブログにも書きました。http://gatashan48.blogspot.com.au/2012/03/311-246pm.html
震災の翌月に 娘の通うブリスベンの小学校が全校を挙げてチャリティの催しを開いてくれたとき、オーストラリアの小学生達が、震災の被害を受けた日本の同じ小学生へ向けて 沢山の励ましのメッセージを書き込んだ 大きな折り鶴を ぼくが日本人を代表して受け取りました。
それをお渡ししたのが、このいわき市立豊間小学校の皆さんでした。
当時 生徒の皆さんは、内陸側にある 高久小学校の校舎を借り、廊下などで授業を受けていました。
その豊間小学校の皆さんが、昨年 本来の校舎に戻ることができたと知り、今回は そちらへお邪魔しました。

校長の水谷先生が 丁度不在だったため、教頭の村岡先生が お忙しい中にもかかわらず 貴重な時間を割いて下さいました。
伺ってわかったのは、 豊間中学校の生徒の皆さんもこちらの小学校で一緒に勉強していることでした。
中学校の校舎は、海岸のすぐ近くで 建物にかなりのダメージあることと、周辺が緑地化されることもあり、取り壊されることになっています。

現在の小学校や地域の様子などについて1時間以上お話を伺いました。
村岡先生は、日本各地そして世界中の国や地域からの支援や励ましなどが 現在も続いていることに 感謝の言葉を述べられました。
ぼく自身も、なかなか進まない被災地の復興、復旧の現状を 現地の方の口から直に聴くことの重要性を噛みしめながら、ささやかながらぼく個人ができることを 震災当時の気持ちを忘れずに 思いを新たにして考えていこうと思います。

村岡先生の言葉がとても印象に残っています。

「子供たちが、見た目には震災以前と全く変わらなく生活をしていることが 我々の救いです。もしかすると 本当にそう見えるだけかもしれないのだけど。」

ぼくは、ここに暮らす大人たちが 生きる勇気や元気を 子供たちから貰っているということを、痛いほど感じました。
その意味で この小学校が この地域の復興あるいは復旧の実質的なシンボルになっているのです。

もともと この周辺地域は、水産加工が盛んな場所です。
海水の汚染状況が把握できないこともあり、今のところ再開の目処が全くたっていないそうです。
不安材料を挙げれば、きりがない状態です。
就労問題、なかなか進まない除染の問題、健康被害の状況、子供たちをはじめ住民の皆さんの心のケアの問題...

”ここで生きていく”という覚悟もこの地域の方々の共通する思いです。
「間違っていけないのは、そうでない生き方もまたあるということです。それは他の場所に逃げるのではなく あくまでも個々の状況や考えの中での自由な選択として 尊重されなければなりません。」

ここオーストラリアにも 日本から避難されて来た 乳幼児を持つ母親が複数いらっしゃって、ホームステイ先などを探すお手伝いをしたことがあります。
その皆さんが日本を出る際、家族以外の周りの方々に海外へ行くとはどうしても言えなかったと 口を揃えておっしゃっていました。
震災当時は、政府の情報が全く信じられないため、そのような判断が当然あって仕方ない状況だったと思います。

人にはそれぞれの生きる環境や状況があり、その中で我々は社会的な役割を最優先しなければならない、日本人はそう信じて生きている人が多いと思います。
いわゆる、できるだけ人に迷惑をかけない という生き方です。
海外の人々が、震災時の日本人の落ち着いた行動に大変な感銘を受けたのも そういう高いレベルのモラルに対してだったのかもしれません。

ただ ぼくが確信するのは、人と人との信頼感が根底にあって初めて それが大衆のレベルで あの時点、あの地域での災害時に機能したいう事実です。
日本の社会の中で価値観がどんどん多様化して来ています。
もしこれから起こるかもしれない 首都圏での有事の際には、それが果たして期待できるでしょうか。

今の日本は、このまま漠然とした社会不安が続いて 大衆心理が思わぬ方向に傾けば、ある時点で保たれていた一定の秩序が ちょっとした出来事が引き金となり一気に転覆して パニックで収集がつかなくなってしまう可能性を秘めています。

日本人としての我々がこれまで長い間 見て見ぬ振りをしてきたことを、一人一人の国民が心から自覚し 反省をして改善への努力を続けていく。
それを我々の若い世代の繁栄のために繋げていかなくてはならない。
それが、我々大人が より良い未来へ最優先でやるべき事柄です。
だから、個々の我々が これだけは絶対に譲れないという志を それぞれの自身の中に見つけて、それに目覚めたなら 実際の行動に移して生きていく。

個々にその生き方の判断を委ねるとは、主体性のある さらに人としてお互いの信頼感に基づく相対性をも併せ持った 古くから脈々と流れる日本の誇るべき代表的な価値観です。

村岡先生は、まさにこういう価値観をそのお人柄から感じられるような方でした。
残念ながら ここでは紹介ができませんが、 個人的お話までしていただいたのです。
先生のお話を伺って 本当に胸が熱くなりました。

考えてみれば、ぼくは幸運です。
そういう方との出会いが最近よくあるのです。
皆さんとのふれあいで、大切なこと気づかされる機会がとても多いのです。
実際には、以前からぼくの周りに 素晴らしい人が沢山いることにも 改めて感謝しなければなりません。
この場を借りて 家族、友人、知人の皆さんにもお礼を言いたいと思います。

このブログを読んでいただいたあなたも、ぜひ東北の被災地に実際に足を運んでみて下さい。
きっと、心に残る出会いがあります。


子供たちの元気な声を 背中で聞きながら 小学校を後にして、しばらく周辺を歩いてみました。
印象深い風景の写真を、コメント付きで掲載します。
少しでも ぼくの今の思いが 皆さんに伝わるなら幸いです。

また、オーストラリアから帰省した際に ここに戻って来ようと思います。


平成25年 1月 18日 いわき市平薄磯にて


ソーラー環境放射線測定器。当日の放射線量は0.194μSv/h。


帰り際、粉雪が微かに舞い降りてきました。

いわき市立豊間小学校 オフィシャル・ホームページ


小学校のすぐ近くにあった 集合住宅。


1階手前の窓から覗くと、未だ 震災当時のまま。


小学校から徒歩2~3分、日本の渚百選 鳴き砂で有名な薄磯海岸。素晴らしい眺め。


福島県内 2012年のシーズン、ほとんどの海水浴場は 残念ながら閉鎖。


美空ひばりさん ゆかりの像。近づくと『悲しき口笛』が流れてきました。

「悲しき口笛」美空ひばり



何事もなかったかのように 引いては寄せる波。


映画『喜びも悲しみも幾歳月』が生まれるきっかけとなった、塩屋崎灯台。

1957年(昭和32年) - 映画「喜びも悲しみも幾歳月」(松竹映画作品、木下惠介監督)が公開され、主題歌共々日本国内で全国的ヒット。灯台職員とその家族が日本全国の辺地の灯台勤務で積み重ねる、長い人生の哀歓を描いた映画作品である。本作は当時の塩屋埼灯台長夫人・田中きよの手記「海を守る夫とともに20年」(雑誌「婦人倶楽部」寄稿、1956年8月号に掲載)から原案を得た内容で、映画には塩屋埼灯台もロケーションで登場した。
(※ウィキペディアより抜粋)


無残に住宅の基礎がむき出しのまま。この一帯は緑地に変わる予定。


灯台口から、猫がずっと後を着けてきました。


堤防には、子供たちが描いた壁画。力強いエネルギーを感じます。


薄磯支援センターで、NPOの方から 復興の現状についてお話を伺いました。
 
建物の外で写真を撮っていると、ドアから声を掛けていただき、温かい飲み物のおもてなしを受けました。
対応していただいたその女性は、震災直後 NPOのボランティアで大阪から駆けつけ そのままずっとこちらに住んでいらっしゃいます。

豊間小学校では、2名のお子さんが犠牲になられましたが、その中の1人の女の子が描いたカラフルで素晴らしい絵が 室内に飾ってありました。

偶然 同じオーストラリア(シドニー)から見えた 姉妹のような日本人の親子や 日本語が堪能なアメリカのバーモント州出身の女性ともお話ししました。
世界中から沢山の人たちが この場所を訪れているそうです。


JRいわき駅。今回は東京駅八重洲口から直行の高速バスで約3時間。とても便利。

JR ジェイアールバス関東株式会社




薄磯地区を多く記録されている いわき市出身の高橋 智裕 氏の写真、映像の作品を ぜひご覧下さい。

いわきのフォトジャーナリスト 高橋智裕 公式サイト
Photographer & Journalist Tomohiro Takahashi Photo Gallery Official Site




「きっと、わらえる 2021」~今、つたえたいこと~

2011年10月7日 福島県いわき市立豊間小学校

東日本大震災で被害を受けた宮城・岩手・福島の学校を対象に、子ども達に笑顔と元気を取り戻してもらう事を目的としたワークショッププログラム
「きっとわらえる 2021」で「今、つたえたいこと」
をテーマに子ども達がメッセージ映像を制作しました。
3回目は福島県いわき市立豊間小学校のみなさんの作品をご紹介します。




最後に、東日本大震災から2年を迎えるにあたって、震災などによりお亡くなりになられた方々に深く哀悼の意を表し、ご遺族の皆様、そしてさまざまなかたちで被災された多くの方々のお痛みに対して、心よりお労り申し上げます。


皇紀2673年(平成25年) 2月 16日